▼「死者の丘」の下の都
1919年から1920年にかけて、インド考古調査局のR・D・バネルジーがこの地を訪れ、遺跡が非常に古いことに気づいた。1924年からはカシナート・ディクシト、1925年からはジョン・マーシャルのもとで大規模な発掘が進められた。
モヘンジョダロという名は、シンド語で「死者の丘」を意味する。遺跡は紀元前2500年ごろに築かれ、古代エジプトやメソポタミアと同じ時代に栄えた、インダス文明の最大級の都市だった。
▼下水道と大浴場
街は焼きレンガで造られ、整然とした街路に沿って家が並び、700を超える井戸と排水の設備を備えていた。中心部の「大浴場」は、儀式に使われたとも考えられている。
最盛期には少なくとも4万人が暮らしていたと推定される。しかし紀元前1700年ごろには都市は捨てられ、その理由はいまもはっきりしない。遺跡は1980年、南アジアで最初の世界遺産のひとつに登録された。
▼「古代核戦争説」の真相
1979年、デヴィッド・ダベンポートとイタリアの記者エットーレ・ヴィンチェンティは著書で、遺跡には核爆発の中心があり、街路に倒れた人骨は一瞬で死んだ人々だと主張した。この話は、のちに「古代核戦争」の証拠として雑誌や番組で繰り返し語られた。
しかし、爆発の跡となるクレーターや、高い放射線を確かめた学術的な報告はない。人骨は異なる地層、つまり異なる時代のものと指摘されており、核戦争説に根拠はない。都市が衰えた理由としては、川の流れの変化や気候の変動などが考えられている。
正体をめぐる諸説
- 壱
環境の変化による衰退説(有力)
インダス川の流れの変化や気候の変動、交易の衰えなどが重なり、人々が都市を離れていったとする見方。
- 弐
外部からの侵入説
外から来た人々の侵入で滅んだとする、かつての説。人骨の再検討などから、現在は支持されていない。
- 参
古代核戦争説
古代に核兵器が使われ、都市が一瞬で滅んだとするオカルト的な説。クレーターも放射線の記録もなく、根拠はない。
